バーニング・シティ

暑いですね。街が燃えています。

 

事情あってYが東京へ行き、今日から二週間ほど京都にて一人暮らしの榎本は、突然に梶井基次郎の本が読みたくなって本屋に行って、新潮文庫の「檸檬」を買いました。

 

ひさしぶりに読む新潮文庫は紙が以前よりも柔らかくなっている気がしました。たぶんマジで柔らかくなっていると思うのですが本当はどうなんでしょうか。僕の指が固くなっただけでしょうか。

 

「檸檬」を十数年ぶりに再読しました。

 

一度読んだのに忘れていたことがありました。肺尖カタルの主人公が心を許すことのできた(「あそこの人参葉の美しさなどは素晴らしかった。」)果物屋で買った、あのレモンがカリフォルニア産だったという事です。別にそれだけなんですが、主人公は買ったレモンを何度も、自分の鼻の前に持っていっては香りを嗅いで、少しカリフォルニアを想像してみたりもするのです。

 

主人公が何を想像したのか具体的な描写はありませんが、カリフォルニアといって僕の頭に浮かぶもののひとつは中学の時に好きになったバンドであるレッドホットチリペッパーズです。「カリフォルニケイション」という歌がありますね。アートで言えばマイク・ケリーとかポール・マッカーシーとか。ワッツ・タワーもある。ハリウッド。ビバリーヒルズ青春白書。ニュースで山火事発生だとか時々言っている。橋。

「檸檬」の主人公が陰部に靴下を履いて演奏するミクスチャー・バンドについて想像するはずないので、もしかしたら太平洋が見える場所みたいな、漠然とした何かを想像していたのでしょうか。ダイレクトにレモン畑? それとも当時の日本には(「檸檬」は1924年作)、僕の知らないカリフォルニアのステレオタイプなイメージがあったのかもしれない。

 

主人公の男は、買ったレモンが実にしっくりきたようです。(「実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだと云いたくなった程私にしっくりしたなんて私は不思議に思える)」

 

この短い小説において、レモン果実の周囲には死を連想させる憂鬱や病気や貧乏がありますが、レモン自体があまりにフレッシュすぎて、古びた本達を店ごと爆破させてワシを楽にさせえ、と主人公にいたずら心を抱かせている。(「もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう。」)っていうか不吉な塊を心に抱えて憂鬱だった主人公は結局は元気になって微笑んでいる。レモンが真にフレッシュになった時には、自分がレモンであった事も忘れてボーっと座っているのかもしれません。名前も失って。

 

小さいときのように、レモンでも何でもいいんですが気に入った対象を、誰にも邪魔されずに、好きなだけ見て、好きなだけ感じて、好きなだけ触れて、好きなだけ想像するという何かたっぷりとした時間について思い巡らしました。